合戦の道
1359(正平14・延文4)年、ここ小郡で九州南北朝最大の合戦「大保原(おおほばる)合戦」が起こりました。この合戦では、懐良(かねよし)親王 ・菊池武光(きくちたけみつ)を中心とした南朝方と、少弐頼尚(しょうによりひさ)を中心とした北朝方が、総勢10万ともいわれる軍勢でぶつかり、激しい戦いを繰り広げました。
<距離・時間> 約6.1Km・2時間10分
10-善風塚跡(ぜんぷうづかあと)
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大保原合戦では南朝側が優位にたち、北朝方・少弐勢は撤退(てったい)しました。しかし南朝側が大宰府の支配権を手に入れるまでにはいたりませんでした。この合戦では両軍に多数の犠牲者(ぎせいしゃ)が出たので、のちに南朝側・北朝側の両方が協力して「善風寺(ぜんぷうじ)」という寺院を建て、死者を供養(くよう)したと伝えられています。中でも身分の高い武将7 人は、ここに特別に塚を造って葬ったといわれています。
11-大原古戦場(おおはらかっせん)の碑
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「大保原合戦」(大原合戦ともいう)は、北朝側の筑前・少弐氏、豊前・大友氏と南朝側の懐良親王(かねよししんのう)、肥後(ひご)・菊池氏が、正平14年(1359 年)7月下旬から8月上旬にかけて繰り広げた戦いです。当時九州の政治の中心であった「大宰府」(だざいふ)は北朝側が支配しており、南朝側はこれを奪うことで九州での勢力を拡大したいと考えていました。大保原合戦はこの大宰府をめぐる戦いです。筑後川をはさんで、南岸には親王・菊池勢が、北岸には少弐・大友勢が互いに軍を並べてのにらみ合いから始まり、戦いは現在の小郡・大保・山隈を中心に、両軍合わせて約10万人の大軍勢で展開しました。
12-福童原古戦場碑(ふくどうばるこせんじょう)
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南朝側は正平16年(1361)に大宰府に入り、その後10年余り九州で勢力をのばしました。ところが文中元年(1372)北朝方の九州探題(きゅうしゅうたんだい)今川了俊(いまがわりょうしゅん)の勢力におされ、大宰府から退くことになりましす。南朝方は再び大宰府へ戻るため、文中3年(1374)福童原に陣を敷いた北朝方との戦いに臨みましたが、これに敗れました。この後南朝方の勢力は弱まり、筑後地方の武士たちは北朝方に従うことになりました。
13-福童の将軍藤(しょうぐんふじ)[県指定天然記念物]
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激しい合戦の中で、南朝側の大将である懐良親王も重傷を負いました。親王は大中臣神社(おおなかとみじんじゃ)で傷の回復を祈願し、願いが聞き届けられると祭神に感謝して藤の木を献納(けんのう)したといわれています。神社には今でも藤の大樹があり、毎年5月には美しい花のもと、「藤まつり」が開かれています。