ふるさと小郡の歴史の道
小郡市内では400 基以上の古墳が見つかっています、中でも注目されるのは三国丘陵にある古墳時代前期の津古古墳群です。鶏型土製品(にわとりがたどせいひん)が出土した津古生掛(しょうがけ)古墳をはじめとする一連の前方後円墳4 基は、当時この地域が非常に重要な場所であったことを表しています。
7 世紀後半の上岩田(かみいわた)遺跡では、九州最古級の寺院(金堂)と大型建物群がみつかりました。続く7 世紀から8 世紀前半に栄えた小郡官衙(おごおりかんが)遺跡は当時の「筑後国御原郡(ちくごのくにみはらぐん)」の郡役所跡と考えられています。いずれも大宰府の背後を支える重要な役割を持っていたと考えられます。
1359(正平14・延文4)年、ここ小郡で九州南北朝最大の合戦「大保原(おおほばる)合戦」が起こりました。この合戦では、懐良(かねよし)親王 ・菊池武光(きくちたけみつ)を中心とした南朝方と、少弐頼尚(しょうによりひさ)を中心とした北朝方が、総勢10 万ともいわれる軍勢でぶつかり、激しい戦いを繰り広げました。
江戸時代の松崎は、薩摩街道(さつまかいどう)沿いの宿場町として大変栄えました。宿場内には現在でも、旅籠(はたご)油屋や南北の構口(かまえぐち)など当時の面影を残す文化財が数多く残されています。また、枡形(ますがた)や桜馬場(さくらのばば)は当時の宿場町の風情を今に伝えています。
大正から戦時中にかけて、山隈原(やまぐまばる)には東洋最大級の旧陸軍飛行場「大刀洗飛行場」がありました。小郡市内にも関連する施設が造られ、太平洋戦争時はアメリカ軍の攻撃対象になりました。昭和20(1945)年3 月の空襲では、たくさんの人々が被害を受けています。この悲劇は平和を願う心とともに未来に語り継ぐべきものです。
人々から親しまれる七夕神社は正式名を媛社(ひめこそ)神社とも言い、8世紀に書かれた「肥前国風土記(ひぜんのくにふどき)」に記述が見られます。また、上岩田老松(おいまつ)神社には注連(しめ)ねり[市指定無形文化財]や五重石塔[市指定有形文化財]が残り、古くから地域に密着した信仰のようすを感じることができます。
御勢大霊石(みせたいれいせき)神社は延喜式内社(えんぎしきないしゃ)で、古くから地域の中心として栄えてきました。また、隼鷹(はやたか)神社とともに神功皇后(じんぐうこうごう)伝承が残る神社としても有名です。一方、如意輪寺(にょいりんじ)には平安時代に作られた如意輪観音立像(にょいりんかんのんりゅうぞう)[県指定有形文化財]があり、筑後地方全域で広く信仰を集めています。
開発が進む現在の小郡市ですが、市内のあちらこちらに今なお緑が残り、市民の憩いの場となっています。花立山や宝満川、そして市内各所の神社に残るクスノキの大木など豊かな自然を楽しむことができます。