ここには7世紀後半頃、規則正しく建ち並ぶ掘立柱建物(ほったてばしらたてもの)や、寺院の金堂と思われる基壇(きだん)を持つ建物などがありました。発掘調査によって瓦(かわら)や硯(すずり)、文字を記した土器、帯をかざる金具などが見つかっています。上岩田遺跡は古代の役所としての機能と、寺院としての機能の両方を備えた場所だったと考えられます。天武7年(678)に起こった筑紫国大地震で多くの建物に被害が出たことから、役所の機能は小郡官衙遺跡へ、寺院は井上へと移転しました。
井上の集落では江戸時代から礎石(そせき)や瓦がみつかっており「いつのものかさだかでないが、かつて寺院が立っていた」ということが知られていました。のちにこの瓦を分析した結果、7 世紀後半頃にいくつかの建物を持つ寺院が建立(こんりゅう)され、そのときに上岩田遺跡の金堂で使用していた瓦を転用(てんよう)したことや、何度か建て替えや修復をしながら8 世紀前半まで存在したということが明らかになりました。正確な伽藍配置(がらんはいち)などは不明ですが、南大門は現在の憶想寺のあたりにあったことがわかっています。
都を中心とした政治の中で地方をしっかり治めるには、人や物・情報が行き来するための交通網(こうつうもう)が必要です。全国各地に役所がおかれるとともに、役所と都を結ぶ道路が整備されるようになりました。この道路を「官道(かんどう)」と言います。松崎六本松遺跡では発掘調査でその一部が見つかりました。筑後平野を東西に横切る長い道で、幅は5.8m、両脇に幅1〜1.7m の溝を持っています。その他にも、大刀洗町宮巡遺跡で同じ官道と思われる遺構が確認されています。この道ぞいの北には、上岩田遺跡・小郡官衙遺跡が、南には下高橋官衙遺跡があり、非常に重要な道であったと考えられます。
小郡官衙遺跡は7世紀末におかれた御原郡の郡役所です。政務(せいむ)をつかさどる「政庁」(せいちょう)や税を保管する「正倉」(しょうそう)のほか、さまざまな業務にかかわる建物が整然とした配置で建てられていました。これらの建物は8世紀中頃になると、全て新しく建て直されました。このとき掘られた溝の中から、多量の鉄鏃(てつぞく)が出土していることから、新しい掘立柱建物は主に軍事的な役割をはたしたと考えられます。